村田沙耶香『世界99』感想|“ディストピアは現代日本だった”と気づかされる消費と性差の物語

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ネタバレには考慮していませんので未読の方は閉じてください。

なるほどディストピアって現代の日本ってことね。
読み終えたあと、頭に残ったのは結局この一言だった。

村田沙耶香氏の『世界99』は、いわゆる遠い未来や架空の社会を描いたディストピアではなかった。

むしろ、少しだけ形を変えた『今』を、逃げ場のない形で突きつけられたような感覚。

主人公は新興住宅都市クリーン・タウンで生きる如月空子。

彼女は周囲に合わせて人格をトレースしながら生き延びてきた人物。
その在り方は極端に見えるのに、不思議と他人事には思えない。

空子の「空洞」という自己認識はただの設定ではなく、現代社会で生きる多くの人間がうっすら抱えている感覚を、異様なほど正確に言語化したもののように感じられた。

読み進めるうちに、面白いという言葉だけで片付けてはいけない作品だと思わされた。引き込まれるし、没入もする。

でも同時に、何度も背筋が冷える。

情景の美しさに惹かれながら、その裏にある構造の冷酷さに気づいてしまうから。

物語の軸にあるのは「消費」だと思う。

人は誰かに消費されながら、同時に誰かを消費して生きている。

その円環が空子の人生を通して丁寧に、そして容赦なく描かれていく。

幼少期、彼女は父に消費され、母を消費する存在だった。

自覚がありながら、その責任を引き受けることはない。

けれどそれは、特別な誰かの話ではなく、私たち自身の構造でもあるのだと突きつけられる。

作中で繰り返し示唆されるのは、「人は自分が消費される側であることには敏感だが、消費する側であることには無自覚でいようとする」という点だ。

差別や排除もまた、その延長線上にある。

明確な悪意があるわけではない。

ただ流れに乗るように、なんとなく他者を切り捨てる。
その無自覚さこそが、最も冷たい。

そして、この「無自覚な加害」というテーマは、性別の描写において一層鋭くなる。

本作に登場する男性は決して多くはないが、描かれ方には一貫した特徴がある。

それは「加害に対して無自覚である」ということだ。その姿はどこか、同じ顔の男が繰り返し現れる不気味さを描いた『MEN 同じ顔の男たち』を想起させる。

個々の人格というより、構造としての“男性性”がそこにある。

この描写は、読む人(特に男性)によっては極端で辛辣に感じられるかもしれない。

だが、少なくとも女性として現実社会を生きる感覚に照らし合わせると、誇張というよりは「よくあることの抽出」に近い。

そこで浮かび上がるのが、「Not all men, but always men」という言葉だ。

すべての男性がそうではない。
しかし、問題が起きるとき、そこにいるのは常に男性であるという現実。
その不均衡と不確実性は、日常の中で静かに蓄積されていく。

さらに興味深いのは、ピョコルンという存在によってそれまで女性に押しつけられてきたケアや労働が外部化されたときの変化だ。

もしすべての負担を引き受けてくれる存在が現れたら、人間は解放されるのか。
答えは、そう単純ではなかった。
むしろ、抑圧されていた側が、さらに下の存在が現れた瞬間に加害側へ回る可能性が、あまりにも自然な流れとして描かれている。

そして恐ろしいのは、それを「理解できてしまう」ことだ。

もし自分がその立場にいたら、同じ選択をしてしまうのではないかという感覚が、うっすらと浮かんでしまう。

ピョコルンを巡る社会の構造や倫理の崩壊は、どこか『PLAN 75』にも通じるものがあった。

制度としては合理的で、社会全体にとっては効率的に見える。

しかし、その合理性の裏側で切り捨てられるものがある。

でも人間は、その仕組みに納得してしまう。

狂気であるはずのものが、現実的な選択肢として成立してしまう。

その危うさが、本作にも通底している。

それでも、この物語に完全な絶望だけがあるわけではない。

白藤という人物の存在が、かろうじて一本の軸を通しているように感じた。

どんな状況でも「誰かの犠牲の上に成り立つこと」を拒否し続ける姿勢は、現実では非効率で、時に無力にすら見える。

それでも、その揺らぎながらも正しさを求める在り方は、この世界の中で確かに異質で、だからこそ印象に残った。

空子と白藤は、まるで水とダイヤモンドのように対照的だった。

決して交わらない価値観を持ちながら、それでも最後にはどこかで相手を思いやっていたように見える。
その関係性には、派手さはないが、わずかな救いがあった。本当にわずかだったけども。


この作品を読んで最も恐ろしかったのは、世界の異様さではなく「理解できてしまう自分」だった。

ディストピアに見えるその構造が、現実の延長線上にしか思えない。
そして、自分自身もまた、その中で適応してしまうだろうという予感しかない。

だからこそ、最初の感想に戻る。

ディストピアとは、遠い未来の話ではなく、すでにここにあるものなのかもしれない。
ただ、まだピョコルンが存在していないだけで。

本当はみんな気が付いているのに、見ないふりをしていること。
その一つ一つを、静かに、しかし容赦なく突きつけてくる作品だった。

※体調が悪い時やメンタルが安定していない時には読まない方が良いと思います。でもおすすめ。世界にどんどん翻訳されて広まってほしいと思う。

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